【判った気になれる相対性理論-アインシュタイン人物像3】アインシュタインとノーベル物理学賞

【判った気になれる相対性理論-アインシュタイン人物像3】アインシュタインとノーベル物理学賞

受賞理由は「光電効果の研究」によるもの

前の記事でアインシュタインの来日について書いたが、1922年、彼は日本への航海中にノーベル物理学賞受賞の報せを受けた。

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アインシュタインにノーベル賞が与えられるのであれば、当然「相対性理論」に対してのものだと思われるだろうが、当時は「相対性理論」に対して懐疑的な声も多く、また理論そのものも非常に難解だと捉えられていたため、そのかわりとして「光電効果の研究」が受賞理由となった。

アインシュタインは、「光は波であると同時に粒子でもある」として、それまで原因が判らなかったこと、つまり波長の短い光(紫外線)を金属に当てると電子が飛び出して来るが、波長の長い光(赤外線)を当てても電子は飛び出さない現象のカラクリを解き明かしてみせた。

波長が短いとはつまり、光の粒子である光子の保有するエネルギーが大きい、ということであり、逆に波長が長い場合は光子のエネルギーが小さいということだ。

短い波長の光を金属にあてると、さながら金槌のようなもので勢いよく叩かれた如く、金属中、核の引力に拘束されていた電子が、その衝撃によって引力を断ち切って外に飛び出して来るようなイメージだ。この例えなら波長の長い光はさながらオモチャのハンマー。いくらピコピコ一生懸命叩いても、効果はない。

光電効果の研究は、後年の科学者たちの努力もあって量子力学として結実し、エレクトロニクスの発展に大きく寄与することとなる。

アインシュタインは、同じドイツ生まれのマックス・ブランクと共に、量子力学の祖でもあるわけだ。

ちなみにアインシュタインは、自身のノーベル受賞を予測しており、その賞金を離婚した奥さんに渡す約束を事前にしていたことは有名な話。

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アインシュタインと湯川秀樹

日本人として初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹は、受賞(1949)後、オッペンハイマーの招きでアメリカに渡った。

渡米後湯川は、ニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所に勤めていたが、ある日、そこで70歳になっていた白髪のアインシュタインと出会った。

湯川と会った際、アインシュタインは涙を流しながら、自分の発見が原子爆弾製造に繋がり、それが日本人に災禍を呼んでしまったことを詫びたという。

 

ちなみに湯川の研究だが、原子核内の陽子と中性子がバラバラにならずに仲良くまとまっている理由として、これを仲立ちする未発見の粒子、中間子の存在を予言したことがノーベル賞受賞の理由となった。

この予言そのものは、1937年、湯川が27歳の時に発表した論文「素粒子間の相互作用」で為されたものだが、発表当時、日本国内では殆ど注目されなかった。

彼の研究はむしろ欧州の科学者の関心を集め、第二次世界大戦直後、英国人によって中間子の存在が証明された。

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