【維新の傑物】勝海舟と福沢諭吉

【維新の傑物】勝海舟と福沢諭吉

勝海舟と福沢諭吉と咸臨丸

幕末から明治にかけての変革期において、この二人は共に欠くべからざる最重要人物であった。

革命というものは、ただ起こってしまえば次に反動が必ず起こり、更に犠牲者が増える。勝海舟は親友の西郷隆盛と協力して「江戸城無血開城」という離れ業をやってのけ、混乱を未然に防いだ。先見の明がある優れた政治家であった。

現在より半世紀ほど前、私が学生だった頃を振り返ると、明治維新を否定的にとらえる向きが世の中的に非常に多かった。現在も明治維新を中途半端なもので革命の名に値しない、という見方が少なくない。では、どの革命なら及第点をもらえるのだろうか?多くの歴史学者によるとフランス革命、ということになる。しかしフランスでは革命の直後に暴動が起きて沢山の人命が失われた。明治維新はそこを、勝や西郷のような視野の広い人間がコントロールしたのだから、高く評価されていいはずだ。

勝は交渉相手であったアメリカ人士官からは、物腰柔らかく丁寧。しかし「怜悧」との評価を頂戴している。

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一方、福沢諭吉は西洋化をしなければ独立は危ういとして、欧化啓蒙運動の親分となった。『学問ノススメ』は空前絶後の販売数を記録、読んでいるいないを問わず一家に一冊あるようなベストセラーとなった。

 

しかし、勝海舟と福沢諭吉、この二人はあんまり仲がよろしくなかった。

 

日本史上に残る偉業である咸臨丸での訪米、旅は道連れ世は情けの間柄であるのに、福沢は後に勝の船上の仕事ぶりについて、「勝は艦長としての仕事を全くしなかった。船酔いのため艦長室からでられなかった。」と報告している。

1858年、日米修好通商条約締結のために日本から使節団が派遣されることになった。彼らは米国の船に乗った。この機会に、日本人も近代的な軍艦を運用できるところをみせてやろうじゃないか、ということで随伴として咸臨丸が派遣されたのだ。

咸臨丸は幕府が発注し、オランダのキンデルダイクにて建造された蒸気機関付の木造帆船だ。全長50メートル、300トン。港を出入りする際にだけ蒸気でスクリューを回し、概要では帆走をした。

米国への航路に一カ月強を要した。この大部分は荒天のため日本人乗組員はほぼ全員船酔いをして役に立たなかった。乗艦していた10人の米国人水兵が実質的に船を動かしたと言われている。「偉業」と言い立てるのに躊躇する話だ。

日本郵便発行の100周年記念切手の図案を参考にした。

 

また、福沢は後世「やせ我慢の説」として知られることとなる書状を直接勝に送って非難したこともある。曰く、幕臣の身でありながら恩義ある徳川家の解体に際し、何の抵抗もせず、維新後は新政府の要職しれっとおさまるとは無節操なり、やせ我慢が足りない、という指摘だ。

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船酔いして艦長らしくなかった、という点について勝は、「威張り散らす幕府の高給取りどもに腹が据えかねていたのでふて寝しておったのだ。」と弁解している。この言い訳、半分は聞いてやってもいいだろう。彼は同船した幕府の要人を冷めた目で見ていたのだ。福沢も勝も、幕藩体制に心底嫌気がさしていた。

また足りないやせ我慢、については福沢に誤解があった。それは、勝家の家名は、海舟の曽祖父の努力で金で手に入れたようなものであった。新潟出身で盲人でもあった曽祖父が、江戸に出て、初めは少額ながらも金貸しをしながら徐々に這い上がっていったのだ。そのことを福沢は知らなくて、勝家は徳川家と同じ三河の武士階級であると、事実誤認をしていたらしい。

そんなわけで海舟の父、小吉は家にあった金の力をかりて没落寸前の旗本、勝家に養子に入ったのだが、並外れて有能であると同時に破天荒な性格の持ち主で、38歳の若さで隠居を命じられてしまった。とはいえ、勝海舟という息子に見る通り、子育てには成功した。海舟は父親とは違って有能かつ真面目であった。勝海舟にしてみれば、貧乏旗本の家名などに執着はなかった。そんなうわべのことなど眼中になく、ひたすら国家の行く末を案じていたのである。それゆえ、西郷隆盛の願いを聞く形で新政府に協力したのだ。このあたりの勝家の事情は、歴史家の奈良本辰也氏の解説による。

当時、長すぎた幕藩体制のおかげで、旗本に限らず、あらかたの藩と武士は疲弊していて商人から借金をするほどに落ちぶれていた。武士は食わねど高楊枝、などといつまでも格好つけてはいられない。いつの世も組織は内側から崩壊するのだ。

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勝は蘭学の猛勉強をした。洋書を書き写したうえでそれを売って小銭を稼いだというから、先祖同様に商才もあったのだろう。また、剣の道も究めていて免許皆伝の腕前であった。維新の立役者となったことで、彼は何度も命を狙われたにも関わらず、逃げることもせずに修羅場をことごとく切り抜けている。腕も、胆力も刺客を上回っていたということであろう。刺客坂本龍馬を懐柔して、配下にしてしまった話は有名である。

一方の福沢も秀才居並ぶ緒方塾にて、塾頭を務めたことが広く知られている。緒方塾は、言うまでもなく緒方洪庵の私塾で、幕府との戦いで名を上げたのちに陸軍の創立者となった大村益次郎も、塾生であった。靖国神社に大きな銅像がある。

彼は年中豆腐ばかり食べていた。客人がきても酒の肴は豆腐であった。

米国に上陸した福沢は、サンフランシスコの写真館で、そこの娘さんと一緒に写真に納まっている。そして帰国後この写真を仲間に見せて得意がっていたそうだ。時代を超えて彼の洒落た部分が伝わってくる逸話だ。彼は欧州も訪れたが、西洋文明を目の当たりにして、驚きこそすれ圧倒されて尻尾を巻いてしまうようなことはなかった。勝と同じく、肚がすわっていたのだろう。

彼の遺した「独立自尊」という有名な言葉があるが、実は肉体についても野獣のごとき頑健な体をつくらねばならない、ということを言っている。それで欧米人と同じく肉とパンを食べることを奨励した。彼が創った慶應義塾の食堂にて、パンの耳を残す塾生を見つけては、「そこは栄養豊富だから食べるように。」と指導してまわったそうだ。

こぼれ話として、咸臨丸は渡航先のアメリカで乗員が食べ物に困らないようにとサバの塩漬けの樽を沢山運んで行った。ところが、いざ現地に着いて米国産の食品を食べてみるとどれもこれも、とても美味い。サバの塩漬けなど食っていられるか!と、樽はほぼ手付かずのままアメリカに置いてきたそうだ。アメリカの食品の中でも彼らの一番人気はアイスクリームだった。復路の船上、アイスクリームが食べたい、という声が船中こだましていたそうだ。

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