われらは海の子~神武天皇の人物像を考えたりしてみよう~

われらは海の子~神武天皇の人物像を考えたりしてみよう~

神武天皇実在説

古事記と日本書紀(記紀)は、7~8世紀に時の天皇及び藤原家が自分たちの都合の良いように創作した一種のお伽噺に過ぎないという説があって、実際現状において多数派だ。それに従えば、大和朝廷初代の神武天皇も、架空の人物ということになる。

一方、少数派ではあるが、記紀は何らかの形で史実を反映している、と捉える説もある。

Advertisement

権力者側のために創作されたにしては、これらの内容は非常に豊かで、複雑、奇想天外であり、権力者側に不都合な事柄もそのまま描かれている上、一見整合性のとれない事柄も整理されずに書かれている。

例えば、第10代崇神天皇以前の天皇に関する記述が極めて少なく(欠史8代)、その上軒並み寿命が100歳を越えていることをもって後世のでっちあげだとされるのだが、自らが創作側だったとして考えてみてほしい。どうせでっちあげるのであれば、記述を増やし、寿命を自然と思われる数字にした方が真実味が増すのではないか。矛盾が多いことがかえって著述したものの誠意を証明しているのではないか

従って、私としては、少数派の説を採り、記紀は史実を反映したものであり、神武天皇らしき、やがて国家の核に育つ部族の指導者は実在したと素直に考える

記紀が示唆すること

話は飛ぶが、世界最古の土器(縄文土器)は、日本列島から出土している。1万6千年も前のものだ。加えて世界最古となる遠洋航海の痕跡も発見されている。このことが示唆するのは、日本には世界でも最も古い部類の文化があり、当時としては人類の最先端をいく土地であったかもしれない、ということだ。

これは意外なことはなく、むしろ自然なのだ。何故なら、人類がアフリカ大陸で生まれてから、多くの人々が太陽の昇る東に向かって移動をし、その中でも一番進取の気性に富む勇敢な者が海を渡って列島にやってきたはずなのだから。そういう始原ならばこそ、国家を形成する過程もまた古く、逸話に富んでいるのではないだろうか。

また、もし、記紀が7~8世紀にでっち上げられた完全な作り話だとして無視してしまうと、豊穣なる縄文時代から古墳時代までの歴史にポッカリ穴が開いてしまう。そんな乱暴な話はあるまい。記紀に登場するあのキングギドラみたいな八岐大蛇はどうしてくれるのだ。あれは、古代の集中豪雨の後の土砂災害の激しさを物語っているのではないか。天岩戸も火山噴火による噴煙で、昼も暗くなってしまった悲惨な状況を暗示しているのではないか。浦島太郎伝説の原型である海幸彦山幸彦のエピソードも、列島の住民と、海を渡ってやってきた新参者との間の確執と交流を語っているのではないだろうか。

記紀の中で、神武天皇は瀬戸内海から、入り口の急流に逆らいつつ、船で大阪に入ったとされている。地質調査によれば、弥生時代の中頃までは確かに今の大阪市街地はお城のある上町台地を除いて海であったのだ。現代の科学が語る内容と、記紀の記述の一致はどう考えるのか。

Advertisement

もうひとつ。

他国民である大陸の人間が書いた魏志倭人伝については疑いを入れずおおむね肯定するのに、同じ日本人が編纂した記紀には疑いをもって接するのは公平性に欠けるし、いささか自虐的ではないだろうか。魏志倭人伝は、ご承知の通り、記された距離、方角に従うと邪馬台国はフィリピン近くに存在したことになってしまうし、描かれている風俗も日本らしくない。故にこれは実際に日本列島にやって来た者による見聞録などではなく、他人から聞いた話の寄せ集め、創作なのではないかと推測できる。倭人伝の距離と方角の矛盾について、やれ記述に単純な間違いがあったためと簡単に許してしまえるなら、何故記紀にも同じ寛大さをもって接することができないのだろうか。

われらは海の子

てなわけで、神武天皇が実在したとしての話

初代天皇となったサノノミコト、後にカムヤマトイワレヒコ、おくりなを神武天皇、は弥生時代の中期から後期にかけてのある日、日向の国の美々津から出航し、瀬戸内海を東進して大和の地を目指した。

第10代崇神天皇が3世紀中ごろに実在したことが纏向遺跡(まきむくいせき)の発掘によって明らかになりつつあるので、その前の天皇9人の在位期間を平均30年と考えると、サノノミコトは紀元前1世紀ごろのどこかで即位したと計算できる。古代ローマはシーザーの時代である。

日向の地は平野部が少なく、大規模な稲作には不向きであったので、より広い土地を求めての遠征であった。天孫族の人々はたまたま、土地事情の良い北部九州ではなく、貧しい土地に生まれた。サノノミコトのサノは、「狭い野」のことである。サノノミコトは自分たちの部族が、今いる土地にしがみついていたのでは発展できないと故郷を見限ったのである。現代のわれわれにも容易に理解しうる動機だ。

遺跡から多くの船が発見されていることから、日向は縄文時代から造船が盛んであったことが判明している。その中には外洋航海に適したものもあった。重ねて言うが、われわれの先祖は航海術に長けていたのだ。※2018年12月北海道で4500年前のものとみられる長野産の矢尻が発見されている。縄文時代に既に津軽海峡を渡って人間の交流があったことが判る。

サノノミコトはどんな男だったのだろう

黒潮が洗う日向の生まれであるから、彫りの深い顔。霧島火山帯を駆け巡った頑健な体つき。部族のリーダーとして当然のたしなみで、優れた弓の使い手であったろう。加えて、書記にある如く聡明であったに違いない。

サノノミコトらが乗った船はこんな感じであったか。

巨木をくりぬいた丸木舟の前後左右に波除のための板を取り付けた。風を利用すべく帆も張っただろう。場合によっては丸木舟を二艘横につないで大型化もしたかもしれない。

人物カテゴリの最新記事