幕末、ペリー艦隊

幕末、ペリー艦隊

1853年青天の霹靂

江戸湾に現れ、列島の民を眠らせなかった黒船四隻のペリー提督率いる驚天動地の東インド艦隊。

「ここから先へは入ってこないで」、という江戸の防衛線(浦賀と房総半島を結ぶ線)なぞ全く無視して湾の奥深くズンズン侵入してきた。(この防衛線って、フランスのマジノ線の先輩だな。)その上で、言う事を聞かぬと大砲をぶっ放すぞ、と砲艦外交丸出しで脅かした。

征夷大将軍(Commander-in-chief of the expeditionary force against the barbarians)の顔は丸つぶれ。てやんでー、天下の将軍だなんて威張っていたが、てーしたことねーなー、と以後、庶民からも侮られることに。これで倒幕・維新への道がついた。

幕府は米国と通商条約を結ばされた。日本に不利な内容であった。軍事力の差はどうにもならない。

不平等条約を日本に押し付けたことについてペリーは、日本人は自分達西洋人と対等に付き合えるほどの段階に至っていない※ので、とりあえずは不平等でいいのだ、という趣旨の証言を米国議会に対して行っている。(※全くの未開人と思っていたわけでもない。ある程度の文明にあると認めてはいた。)今も昔もこうなのだ。軍事力のある者が基準をつくる。

顔をつぶされた幕府だったが、ただ手をこまねいていたわけではない。外圧に対抗すべく、直ちに西洋式海軍の建設に着手した。

以下の、幕府の対応については、主に神谷大介著「幕末の海軍」(吉川弘文館)による。

圧倒的な武力の差を見せつけられた幕府は、鎖国政策の柱であった、大船の建造・購入・保有の禁止三原則をあっさりと捨て去った。各藩も外国から様式軍艦を購入したり、自ら建造できることになった。でも、お金がない。幕府は各藩の財政を締め付けていた参勤交代の頻度や規模の縮小を認めた。そこで浮いた金で船を買ってよ、そして海軍を持ってよ、というわけだ。

何事を成すにも人が大事。幕府は長崎に海軍伝習所を設けた。勝海舟はそこで伝習生の監督を務めた。少し後、長崎の施設を閉じて今度は築地に軍艦操練所が出来た。勝は教授を務めた。これら海軍軍人養成所には幕府の人間だけでなく、各藩の希望者も入れた

築地は福沢諭吉が蘭学塾(後の慶應義塾)を開いた由緒ある場所でもある。この二人は築地にも縁があった。明治になってからは兵学校などの海軍施設が置かれた。戦後は魚市場となり昨年までそれは続いた。

これに先立ち、幕府は外圧対抗案を広く募集した。武士階級はもちろん庶民からのものも含めて合計800本の提案書が寄せられた。窮屈な幕藩体制にあっても、聖徳太子の教えである「広く議論を交わす」必要を認めていた点は偉いと思う。

勝海舟も意見を寄せた。それは、オランダだけでなく、広く世界と通商をし、金を稼いで軍艦を造ろう、というものであった。外貨獲得の一つとして、米をアメリカに輸出するというものも含まれていた。経済にも目配りする視野の広い人であったことが分かる。

 

ペリー艦隊四隻の内、蒸気船は二隻だけ。残りの二隻は帆船であった。旗艦サスケハナは、咸臨丸のスクリュー推進に対するに、外輪による推進方式であった。

Advertisement

日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)

1858年締結(施行は翌年)。輸入は低関税、輸出は高関税。その上、日本滞在中の貿易全部を牛耳る米国人他西洋人商人に対し日本の警察権は及ばない、という内容であった。後に不平等を解消するが、それは日露戦争の後のことであった。

条約発効の100年後の1959年、12歳の私はロスアンゼルスにいた。そこで日米関係者による100周年記念行事が行われた。日本人はまだ少なかったことから、歌はめちゃめちゃに下手な私も駆り出され、急きょ編成された合唱団の一員となり、記念の歌を歌わされた。人数が20人程いたので、いい加減に歌ったけど人に気付かれることは無かった(多分)。

その歌詞の出だしは、「太平洋の波越えて、自由の鐘は鳴り渡る…」という感じだった。その時に、不平等条約の屈辱という感じを持っていたわけではない。後刻、もう少し齢を重ねてから悔しくなった。弱い立場の国に無理やり押し付けた条約の記念に、自由の鐘とは何事だ

1959年の時点でも日本は弱かった。

Advertisement

人物カテゴリの最新記事