忘れじの青函連絡船

忘れじの青函連絡船

1966年の6月。上野発の列車で北海道まで行った

高校三年の修学旅行であった。

現地は丁度花の季節で、ライラック、ハマナスという東京や横浜では見たことがない花が咲いていた。

差し渡しちょうど100kmという切りの良い距離の津軽海峡を渡る際、「渡し船」たる青函連絡船の世話になった。

その船の名前は忘れてしまったが、後日、調べてみたら「八甲田丸」「大雪丸」「摩周丸」「羊蹄丸」の4隻の何れかの可能性が高いことが判った。

どれも東京オリンピックの年(1964年)、もしくはその後2年間のあいだに就航した同設計による列車運搬船である。

5千トンクラスの青函連絡船は、船としてかなり大きい部類に入る。

海峡の上を航行している間、大きな揺れを感じなかった。

函館港に到着後、船尾から列車が引き出される様子

森繫久彌さんが作詞・作曲し、1960年に発表された「知床旅情」を美人のバスガイドさんから教えてもらったのもこの時であった。

但し1番と3番だけ。なぜか2番は省かれていた

問題の2番の歌詞はこうだ。

旅の情けか 酔うほどに彷徨い 浜に出てみれば 月は照る波の上

今宵こそ君を 抱きしめんと 岩陰に寄れば ピリカは笑う

ああ、そういうことか。

高校生はまだ早いというわけだ。

気の利かせ方がいい。

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