バトル・オブ・ブリテンのスピットファイア

バトル・オブ・ブリテンのスピットファイア

バトル・オブ・ブリテン

「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる、第二次世界大戦の初期(1940年春から秋)にイングランド南部上空の制空権を巡って行われたドイツ空軍との戦いは、英国人にとって永遠に記憶すべき名誉の瞬間(the finest hour)であった。

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英国軍勝利の要因を整理してみよう。

1.世界最高性能のレーダー網。及び各地からもたらされる敵軍の動向をネットワークで共有しつつ、最終的には一箇所に集約することによって的確な判断を下し売る組織を構成していたこと

対するドイツ軍は貧弱な情報の下で戦わざるを得なかった。何時の時代も情報を制する者が勝利を掴む。

2. 優秀な高射砲部隊の存在

3. ドイツ側の曖昧な戦争目的と準備不足

4. 戦闘機部隊の活躍

ドイツ空軍の保有する戦闘機の航続距離は短く、英国本土まで飛行してからの戦闘には無理があった。

一連の戦いにおいてイギリス側の象徴となったのが、空軍のスピットファイア機である。

彼らがこの機に寄せる想いには、日本人がゼロ戦に接する時の気持ちに近いものがある。

或いはそれ以上かもしれない。何しろ、今でも国家行事の際には何機もの現存スピットファイアが大空を舞うのである。

当時の英空軍には、実はポーランド人、チェコ人、アメリカ人をはじめとする500名もの外国人パイロットが助っ人として加わっていた。

一人で20機から30機のドイツ軍機を落として、撃墜王となった勇者の中に、英国人以外の名前が何人も認められる。

ヨーロッパ大陸は、この戦いまでにほとんど全域をドイツによって占領されていたから、ポーランドなどの祖国解放の動きはイギリスを舞台に行われたのである。

『バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)』という呼称は、時の英国首相チャーチルによって名付けられた。

彼はフランスがドイツによって占領された時に、「バトル・オブ・フランスは終わった。これからはバトル・オブ・ブリテンが始まるのだ。」と宣言したのである。

この戦闘に敗れたヒットラーは、英国への侵攻を諦めた。

ゼロ戦VSスピットファイア

優秀なスピットファイア機であったが、アジア空域での戦いぶりはどうだったか。

記録を読むと、日本のゼロ戦や陸軍の一式戦闘機「隼」らと比較して、日本機の方が一枚上手だったようである。

アメリカ軍はゼロ戦の優秀な格闘能力をよく認識していて、高速を活かした高高度からの一撃離脱による戦闘方法を確立していたが、そういう事情に疎いスピットファイア機のパイロットは、ゼロ戦や隼が得意とするドッグファイトに持ち込まれて苦戦を強いられたのである。

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