【日本海海戦】帝国海軍を勝利に導いた「通信インフラ」の話

【日本海海戦】帝国海軍を勝利に導いた「通信インフラ」の話

日本海軍の勝因

15世紀以来、400年の長きに渡って続いた西洋人による一方的な地球支配の動きは、日本海海戦における日本海軍の勝利によって、走行中の自動車であればタイヤがパンクしたほどの緊急停止をさせられた。日本の勝利は、当時植民地支配下にあった幾多の国の人々に民族の誇りを取り戻させ、独立に向けての機運を醸成させた。この海戦は、近代史においてエポックメイキングな戦いであったと言える。

日本の勝因の1つは優れた通信インフラにあった。

日本海軍はイタリアの発明家グリエルモ・マルコーニが開発した無線機を、更に改良した三六式通信機を実用化し、海軍艦艇のほぼ全てに実装した上で戦いに臨んだ。日本海軍は、当時世界で一番優秀な通信システムを備えていたのである。

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ロシアのバルチック艦隊が五島列島沖を通過しようとした時、予め碁盤の目のように区割りされていた警戒水域、その203番を哨戒していた信濃丸がいち早く此れを発見、三六式無線機にて、東郷平八郎が指揮する連合艦隊に伝達した。

この素早い連絡によって連合艦隊は、燃料となる石炭の積載量を、近海における海戦に最適とされる量に調節する貴重な時間を得るなど、準備に余裕を持って当たることができたのだ。

この時の大気の通信環境は極めて良好、太陽の活動も大人しい時期であったことが幸いした。太陽の活動が活発だと電離層に影響を与えて通信を阻害する。太陽も日の丸に味方してくれたわけだ。

信濃丸からの「敵艦見ゆ」の通報を受けて連合艦隊は出撃。その際、旗艦三笠の参謀、秋山真之は「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」なる電報を東京の本部へ送った。この後半部分には、荒波の中でも徹底的に砲戦の訓練を続けた日本艦隊が有利である、との信念が込められていた。事実、日本側の射撃精度は高く、多数の速射砲の攻撃によりロシア艦隊は火災による壊滅的な打撃を被り、戦いの趨勢は決した。

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信濃丸

連合艦隊と共に勝利の立役者となった信濃丸は、もともと遠洋航路用の貨客船であったが、海戦にあたり海軍に徴用されていた。

1905年5月27日未明、世紀の決戦に備えて対馬から五島列島に掛けての担当海域の索敵活動に従事していた。

単縦陣で対馬海峡へ向かうバルチック艦隊を、信濃丸が発見した「水域203番」は、奇しくも陸軍が多大な犠牲を払って攻略した旅順の「203高地」と数字が同じである。

信濃丸は日露戦争以降も、錆だらけの老朽船となりながら第二次世界大戦時には兵站輸送の一端を担う活躍をみせた。戦火の中をくぐりぬけ無事に生き延びた幸運な船であった。

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