【大航海の立役者】キャプテン・クックとウィットビー石炭運搬船

【大航海の立役者】キャプテン・クックとウィットビー石炭運搬船

キャプテン・クック何した人ぞ

英国海軍にとってネルソン提督と並び称される偉大な個人、キャプテン・クック。

ここ日本でも名前だけは皆知っているが、どんな功績を残した人か詳しく説明できる人はあまりいない。

キャプテン・クックことジェームズ・クックは1728年英国ヨークシャー生まれ。

18世紀後半、中古船を駆って三度の世界周航を実施。

一度目にオーストラリア、ニュージーランドを発見し英国の領土拡大に貢献。それに加えて、南太平洋の島々を幾つも発見。(ラグビーW杯の出場国の顔ぶれを見ると、もしクック船長なかりせば、と思いますね:アクトンボーイ)

二度目は、インド洋から太平洋にかけての高緯度海域をくまなく探査して、当時、南半球に横たわっていると信じられていた巨大大陸の存在を否定し、そのついでに、肉迫して南極大陸発見を試みた。試みは失敗に終わったことになっているが、実はクック船長の船は南極大陸の大きく内側に凹んでいる部分に入ってしまったのだ。実質的には発見したのも同然と考えられる。

三度目は大西洋と太平洋を結ぶ北方水路を見つけるという方針の元、南太平洋からアラスカ、ベーリング海峡まで足を延ばしたものの、それは確認できず。ハワイ諸島にて住民との諍いが元で落命した。

この間、万里の波頭を乗り越え、暗礁や荒れ狂う南氷洋とも戦い、幾多の試練を克服し、乗組員の健康にも配慮して、その時代には当たり前であった壊血病を予防することにも成功した。乗組員の誰よりも操船と測量技術に長け、勇猛果敢にして沈着冷静、泰然自若、謹厳実直、滅私奉公、そして、硬軟自在。

寛大でユーモアをも解するという、指導者としてこれ以上の模範は無い、と思わせる人物であった。

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クックを育てた港町ウィットビー

イングランド北部のウイットビーという町が若きクックを育て、そこの造船所で建造された石炭運搬船が前代未聞の成功をもたらしたとも言える。

クックは農業従事者の一家に生まれたが、若くしてヨークシャーからウイットビーに出て、石炭運搬船の船員として働いた。

その後、七年戦争最中の1755年、一水兵として海軍に入隊した。

1757年に航海担当者(マスター)に異例の速さで昇進。29歳と若いが既に測量の名人と目された。この頃ニューファンドランドの精緻なる地図を作製し高い評価を受ける。

今は歴史上の役目を終えて静寂さの中に沈殿したこの町ウィットビーは、しかし、クックの時代には活気のある造船と港町として栄えていた。沢山の運搬船がひっきりなしに出入りして、内陸産の石炭をロンドンまで運んだり、造船の為の大陸産木材の輸入基地でもあったから、イングランドのあちこちから若者が仕事を求めて集まっていた。

また、清廉潔白、真面目一筋なクエーカー教徒も多く住んでいたことから、街の雰囲気は、港町にありがちな乱雑、喧噪からは遠く堅実さを保っていたので、若者は自然に仕事に精を出すようになっていたし、上流階級の子弟には必須であったラテン語を教える学校は無かった代りに、造船や船乗りに必要な航海術や数学をはじめとする実学を教える学校が幾つもあった。

そんな実質を重んじる町で若い時代を過ごしたクックは、将来立派な船乗りとなる目標を立て、操船の基本を実践学習しつつ、測量、数学、天文、地理などの知識も吸収したのである。

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いざ大航海へ

金星の太陽面通過の様を観測すること、ならびに何につけ張り合っていたフランスが太平洋上の島を自国領に編入しつつあることに対抗する、という二つの目的のために大掛かりな探検航海が国家事業として浮上すると、英国海軍は、その指揮者にクックを選んだ。

英国海軍には、艦長には貴族階級出身の士官が当たるべき、との習慣があったのであるが、クック以外に適当な者は見当たらないとして、特例として、貧しい階級の出身で正統なる教育も受けていない彼を抜擢し、大佐という身分を与えたのである。

この壮大なる世紀の探検を成功させるためには、広い海洋の何処にいようと、例えそこが初めての海域であろうと、自分の艦の位置を常に把握できる、つまり正確な測量技術を持った艦長が必要であったのだ。それ程に、クックの技量は抜きんでていた。

そして、キャプテン・クックが前人未踏、空前絶後の冒険のために選んで艱難辛苦を共にした帆船は、第一回目のHMS エンデヴァーも、第二と第三回のHMS レゾリューションも共にウイットビー石炭運搬船であった。

 

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石炭運搬船の特徴

海軍とウイットビー石炭運搬船の関係は浅からぬものがあって、戦役の際には(当時は戦役だらけであったが)、海軍が兵站輸送のために臨時にこの種の船を使用した。

特徴は何と言っても、その形にある。重量物の石炭を腹いっぱいに詰め込めるよう船体は丸みを帯びており、船殻材料は、当時、船に最もふさわしいとされていた多くのオーク材(樫の木と訳す場合が多いが、むしろ楢に近い)を使用したために極めて頑丈であった。

普通なら速力を上げるために海を切り開く艦首は鋭角に造られるところを、この艦の場合は、たらいの如くまるまっちかった。速度よりも積載能力と頑丈さを優先したのである。この選定は全く正しかった。エンデヴァーはグレートバリアリーフの一角にて深刻なる座礁事故を起こし、艦底に穴が開いたにも関わらず、影響は艦体構造にまでは及ばずで、無事に離礁、応急修理をして航海を続行できたし、また、二隻目のレゾリューションは荒れ狂う南氷洋を往復して南極大陸発見寸前まで接近し得たのである。それ程に頑丈な艦であった。

さて、このエンデヴァーの座礁はクックの探検の中で最大の危機であり、そこからの離礁は彼の航海術を評するうえで最も称賛されたものであった。次の稿で少し詳しく述べる。

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