「命のビザ」を繋いだ船・知られざる天草丸の話

「命のビザ」を繋いだ船・知られざる天草丸の話
Advertisement

杉原千畝のビザのあと

1940年、窮地に陥ったユダヤ人に、権限を越えて「命のビザ=日本通過査証」を発給した杉原千畝の「勇気」はよく知られているが、それは事の始りであり、ユダヤ人達が無事に逃げ延びるためには更なる支援が必要であった。

シベリア鉄道による二週間に及ぶ逃避行中はソ連兵による暴力と、金品を強奪される等の非情な仕打ちを受けて、生きた心地もせずにウラジオストックに着の身着のままの悲惨な状態で到着した彼らを、敦賀の港まで安全な内に移送するのを助けた民間人がいた。

到着した敦賀では持たざるユダヤ人に食料や風呂を無償で提供した一般市民もいた。

ドイツとの関係の中で、触らぬ神に祟りなし、を決め込むことも出来たであろうが、敢えて関係を無視して便宜を図った将校もいた。

外務省も結局は杉原の逸脱した行為を黙認した。

発給時の日本滞在10日間、という短すぎるビザの有効期間を延長するために奇策を練った官民もいた。

結果、敦賀の後、神戸、横浜にて、太平洋を渡る日本船を用意する時間も与えられて、「命のビザ」所持のユダヤ人は希望通りに目的地である米国や豪州にExodusすることができたのだ。その数約6千人。

日本海汽船の天草丸。人種差別を憎む日本人全員の「儀」を体現した船である。

ウラジオストック港の岸壁が大型船の接岸に適していなかったため、2〜3千トン程度の小ぶりな船が任に当たった。その代表格が建造後30年という老朽化した天草丸であった。僚船である河南丸などと共に、真冬の日本海の荒波に抗しながら幾度も往復してユダヤ人をウラジオストックから敦賀まで運んだ。

僚船、河南丸

僚船にはイラストの河南丸の他、はるぴん丸や氣比丸があった。

義を見てせざるは勇無きなり。

実は杉原千畝だけでなく、欧州の幾つかの日本領事館も通過査証を発給していたのだ。

また、別の時期に上海の地にては、海軍が査証を持たない者を含む2万人近くのユダヤ人を保護し無事に脱出させた事例もあった。

杉原の前にも、満州国境を通過させてユダヤ人を救出した陸軍将校もいた。

つまり、日本中がユダヤ人の境遇に同情し、直接関与した日本人は献身的に脱出を支援したのである。

日本は当時、人種差別に反対する唯一の国家であり、死の瀬戸際に追い詰められたユダヤ人に手を差し伸べることは日本国民全体の合意であったのだ。

天草丸はドイツで建造されてロシアが運航していたが、日露戦争の結果、戦利品として日本の所有となった。そしてユダヤ人を助けた。戦争中、アメリカ軍潜水艦の雷撃により沈没してしまった。

Advertisement

カテゴリの最新記事