【ラクガキ旅日記9】船で渡った太平洋~おもひでの高忠丸航海記

【ラクガキ旅日記9】船で渡った太平洋~おもひでの高忠丸航海記

太平洋航路

1962年、15歳の夏ーサンフランシスコから横浜まで、太平洋の大海原を船で横断した。

その船は大同海運の貨物船「高忠丸」1万トン(1955年三菱長崎造船所建造)であった。

ロスアンゼルスにて粉末石炭を積み、途中サンフランシスコに立ち寄り旅客を数名(うち1人が私)拾ったあと、日本へ向かうとい航程であった。

高忠丸は貨物船であったが、客室も数室用意されていた。

船はハワイの遥か北側を西航したのだが、ちょうど同じころ「太平洋ひとりぼっち」で有名な堀江さんのマーメイド号が、ハワイよりもかなり南の海上をサンフランシスコに向かって帆走中であった。世紀の冒険家と同時期に、太平洋上ですれ違ったわけだ。

乗船する前は、1万トンと聞いて「大したことないだろう。」と思っていたのだが、実際に乗ってみると案外広い印象だった。船倉を満杯にしている石炭の重さもあって船の重心は低く、それにより推進機関は目いっぱいの力を発揮することができたから、客室にいてもグググという力強い振動が四六時中伝わってきたものだ。

数組しかいない旅客は、機関関係以外の船内各部を自由に動き回ることが許されていた。

だが真剣に船内を探検したのは、客のうち私だけだったであろう。

中学生だった私にとって一番面白かった場所は、なんといっても船橋で、そこでは当直の乗組員がよく話し相手になってくれた。

そこで聞いた話だが、海が凪いでいるときの船の操舵はほぼ自動なんだソウダ。船は直進しているつもりでも海流、波や風の影響で定められた航路をいつの間にかはみ出してしまう。そこで頭の良い人が作った装置が、自動的に舵を微調整する。だからはた目には直進しているように見えても、実際は細かくジグザグに進んでいるのだという。

季節が夏だったから、日本に近づくと台風の影響が現れた。船に大きなうねりが押し寄せてきたのである。船にとって縦揺れは禁物。船首が波に突っ込んで速度が落ちるだけでなく、下手をすると船体が折れてしまう。故に横揺れになるように操船される。航路から外れるので到着が遅れるがやむを得ない。横揺れなら船の速度そのものに変化はない。

大波と大波の間の谷底を抜けるときは、船橋左右の窓の向こうに巨大な波が崖のようにそそり立ち、船橋内は夕刻のように暗くなる。空も見えない。さながらエクソダス中にユダヤの民を率い、海を割って渡ったモーゼ気分。

畏怖の対象としての圧倒的な海がそこにはあった。

そんな大揺れの時、背の高い椅子に腰かけた航海士は、船のかたむきに沿って左右に椅子ごと数メートル横滑りするのを楽しんでいた。椅子の足は滑りやすいよう工作されていた。頼もしい海の男の姿がそこにはあった。

ちなみに外国航路の船には、1等から3等までの航海士が3人乗船している。彼らは交替で船橋に入るようだ。港の出入りのときのように特段の注意を必要とする際には、3人が岸壁や海面をよく見通すことのできる船の要所に散って警戒の目を光らせるのだ。

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高忠丸は粉炭を積み込んでいたので、甲板はさぞかし汚れていると思いきや、乗組員により丹念に清掃されておりピカピカであった。このあたりに日本船らしさが見てとれた。それにしても原油の国アメリカ、特にカリフォルニアは産油地なのだが、そこには石炭もあるのだ。改めて豊かな国であると感心した。

積み荷一杯の船は、船倉が空の状態のときと較べて、船首と船尾が何十センチも沈下している。というのも、船倉というのは船の前方と後方の両方にあるからだ。鋼鉄製の船とはいえ、全長が140メートルに及ぶとそれだけ撓(しわ)るのだ。

ある時、船の最突端、甲板よりも一段高くなっている場所から身を乗り出して、船首が海面を切り開くところを覗き込んだ。危険な行為と引き換えの光景だけに迫力満点あった。白波が反射する光が眩しかった。船橋にいる当直が心配そうにこちらを見ていたが、彼は何も言わなかった。今の時代ならありえないことだろう。

船首に立って大海原を見渡すと、周囲に他の船が全く存在しなかった。堀江さんではないけれど、太平洋ひとりぼっちという感慨が沸いた。

またある時、甲板上にて乗組員とキャッチボールをしていたら、高めに飛んできたボールを捕ろうとジャンプした拍子にグローブが手からすっぽ抜けて、そのまま海に落ちて行ってしまった。わが愛着の品は、現在も3,000メートルの深海に横たわっているのであろう。

変化の少ない船旅において食事は楽しみな時間のひとつである。が、船が進むにつれ食堂に顔を出す客は少なくなっていった。船酔いのせいである。私の座るテーブルには船長が同席してくれた。長年海で仕事をしてきただけに落ち着いた温厚な人物であった。

息子さんに船員になって欲しいか、と聞いたところ静かに首を振っていた。

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台風も去り、出航から2週間が経過し、船が房総半島を右に見つつ東京湾に入る段になって、船長が船橋に現われた。横浜港までの水路は狭く、船の往来も多い危険水域であるから責任者の登場となるのだ。

東京湾の海水は汚れ切ってどす黒い色をしており、且つ嫌な臭いを放っていた。後で知ったが、東京湾では沈殿した汚物、ヘドロが海底を覆って好気性生物を窒息死させていたのだ。

高度経済成長の負の側面がそこにはあった。国の公害対策が本格化するのは、これよりもう数年先のことだ。

いよいよ横浜港が近づくと、タグボートがやって来て、乗船している水先案内人が高忠丸を先導した。

無事に接岸すると入国管理局の官吏が威張った態度で客を尋問した。

オレンジの花薫る明るい常春のカリフォルニアから久しぶりに戻ってみると、腐った海といい、役人の尊大な態度といい、薄汚れた港湾施設の建物といい、日本は何だか息苦しい雰囲気に包まれていた。

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