戦前、戦中に日本が開発した飛行機というと「零戦」や「紫電改」、「隼」こと一式戦闘機などが有名で現在でも航空ファンに人気があるが、当時、主要国に比べて艦船数において劣勢であった状況を打開すべく、日本は航空戦力の充実に躍起になっていた。
上に挙げた以外にも日本軍が開発した飛行機は色々ある。中にはユニークなやつもあるので、ここでちょっと紹介したい。
陸軍四式戦闘機「疾風」
「隼」と同じく中島飛行機製造。
搭載されたハー45発動機、出力2,000馬力のおかげで日本軍最高の性能を誇った。
最高速度は実に時速624km。速度だけでなく武装や防護なども秀でていた。
ただ戦況悪化に伴う部品・燃料・潤滑油の不足や品質不良の結果、稼働率の低下に悩まされた。
終戦後、米軍が高品質の補給品をもって試験飛行をしたところ、当時米軍最高傑作と言われていたP-51ムスタングの性能を上回った。
燃料の不足はパイロットの育成や偵察機の活動にも影響を与えた。
環境のせいで限界までその性能を引き出すことができなかった、不遇ながら、最高の戦闘機であった。
約3,800機が製造された。
開発した中島飛行機の流れをくむのが、現在の富士重工である。
二式水上戦闘機
こちらも中島飛行機製造。
占領したばかりの島嶼(とうしょ)など、飛行機が離発着できる場所がない環境下では、フロート式の水上戦闘機が即戦力として有効であることにいち早く気づいた日本軍は、戦闘機としてその性能に定評のあったゼロ戦を水上戦闘機に変換して戦場に投入した。それが二式水戦である。
自重2トン、最高時速440km、航続距離は1,150km。
ゼロ戦にフロートをポン付けしたという訳ではなく、水上機は海水を浴びるので電気系統などは材質を変更した。
合計300機以上が生産され、この分野では当時世界唯一の成功例となった。
200kgを超えるフロートを付けたため、通常の戦闘機としての性能は期待できなかったものの、補助的な役割を演じて所期の目的を達成した。
二式飛行艇
大戦中に活躍した海軍の大型飛行艇、それが二式大艇こと二式飛行艇である。
川西航空機が九七式飛行艇の後継機種として製造した。
海軍の要求に応えて、最高時速470km。最大の特長である航続距離は8,000kmに及んだ。
24時間に達する長時間飛行に備えて、トイレや冷蔵庫、ベッドまであった。
攻撃、防御共に優れており、また、ゼロ戦と同じ超々ジェラルミンを採用したこともあって、当時同格の飛行機の中ではこれも世界最高の性能を誇った。
「空飛ぶ戦艦」なる異名も頂戴していた。
現在世界最高性能とされる、海上自衛隊が救難飛行艇として運用しているUS-2の兄貴分に当たる。
局地戦闘機「震電」
日本海軍が試作したB29を迎撃するための戦闘機「震電」。
この機体はプロペラが機体の後ろにあった。
後ろ向きだが、考え方は前向きであった。
設計では時速700km、12,000mの高高度を飛行可能ということであった。
その程度の高度で飛来するB29を正面から攻撃しようというものであったが、残念ながら試験飛行中に終戦となってしまった。
機体の後ろにプロペラがあるということは、何かあって搭乗員が脱出する際に、プロペラと接触してしまう危険があった。
そこで、緊急事態には爆薬でプロペラを破壊する措置が講じられていた。
設計にあたってはドイツ人の知恵を借りて効率的な生産ができるよう、工夫が凝らされていた。
ゼロ戦とは全く異なる思想に基づくことで、敵に一泡吹かせようと考えられたわけだ。