【もはや歴史的古文書?】「ダグラスDC-7C」日付変更線通過証明書から思うこと

【もはや歴史的古文書?】「ダグラスDC-7C」日付変更線通過証明書から思うこと

海外旅行が珍しかった時代

1958年のことだから、今から60年も前に、日本航空最後のレシプロ機、ダグラスDC7Cに乗ってホノルルに飛んだ際にもらった日付変更線通過証明書を、どういうわけか今も持っている。

この60年間に、私は米国⇒日本⇒マレーシア⇒日本⇒英国⇒米国⇒日本⇒オランダ⇒オーストリア⇒日本という具合に、国際的あちこち、及び国内あちこちを、計30回も転居してきているのに未だに失くしていない。奇跡だ。

戦争に負けて未だ10数年の時代だ。海外渡航をしないともらえない証明書を、持っている人は希少の部類だし、それを後生大事に何十年間も保管している人は更に少なく、今やほとんどいないのではなかろうか。「引っ越し貧乏」の言葉の通りで、書画骨董品類の全く無いわが家の中では立派な古文書である。

この、黄ばみ、縁が痛んだ古文書をあらためて、しみじみと見てみると、

1958年(戌年)12月18日、午前8時5分に日付変更線、The International Date Lineを越えた、とある。格式のありそうな証明書なのに、「昨日、今日、明日がぐちゃぐちゃ(jumbled)になってしまう変更線」という、ちょっと楽しい修飾文が付与されている。

「変更線の手前で大砲から発射された弾丸は日付変更線を越えたらどうなるの?」

この冗談は、今や古典の部類に属してしまった、真珠湾攻撃を描いた米日合作映画「トラトラトラ」の中の、唯一と言っていい冗談を言う場面、ハワイに向かう機動部隊の、一軍艦の料理人に扮した渥美清のセリフだ。

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終戦後の空

搭乗機の愛称は、City of Honolulu。操縦室の窓の下方にレタリングされていた。

当時は、日航にとっては数も少ない大事な財産であるから、機体毎に名前が付けられていたのだ。太平洋路線では、他に、City of Tokyo、City of San FranciscoとかCity of Los Angelsというのがあったな。今の時代は保有数も約230機(JALのみ)と多いから、いちいち名前を付けたりしていないだろう…登録機体番号かな。

証明書の署名は機長のものだ。字がうま過ぎて、もしくは下手過ぎて、正確には読み取れない。Offkosteffと読める。耳馴染みのない響き。要するに日本人ではない。米軍出身の操縦士の可能性が高いだろう。

終戦後、GHQによる禁止措置のため日本は空を失った。その禁止が一部解けて再び商業航空会社を運営できるようになったのは1951年のこと。但し、営業権のみ。そこで日本航空が誕生した。未だ占領国から課せられた制約が残っていた。その時はDC3型を一機のみで国内線に限って運行を開始。社員40名弱に、英語堪能な日系人を加えた細々とした陣容であった

翌1952年に、ノースウエスト航空出身のアメリカ人が操縦するDC4、もく星号が伊豆大島に墜落する大事後があった。乗客乗員40名弱全員帰らぬ人となった。当時は管制も操縦もアメリカ人が行っていた。この事故原因は、日本側に調査権限が無かったこともあり、うやむやのままである

当該空域を同時刻に飛ぶ多数の米軍軍用機との衝突を避けるために、もく星号には、出発して木更津に達したら進路を南にとり、高度2,000フィートにて飛行、という低高度が要求された。しかし、航路上には標高2,000フィートを超える大島の三原山が聳えていた。それを回避するための高度につき、複数の関係者の指示に混乱があったらしく、結局、三原山に衝突という最悪の事態を招いてしまった、ということのようだ。

国内では大騒ぎになったけど、真相不明のままになってしまったから、事故を題材にして、戦後の混乱期を扱うことの多い松本清張が小説を書いたっけ。「風の息」とかいう題だった。独立をうしなった国の悲しさを感じさせる内容だった。

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今日においても、羽田の西側空域は日本の自由になっているわけではない。米軍横田基地に出入りする軍用機発着のために米軍が管轄しているのだ。その意味で、占領は未だ一部継続中である。空母の戦闘機F18スーパーホーネットなどがつい最近まで、全くの住宅地にある横浜市青葉区の我が家上空をよく飛んでいたものだ。戦闘機は騒音が激しい。これらが上空に差し掛かるとTVの音が聞こえなくなった。空母艦載機は岩国に行くようになったので今は静かになった。

日航は同じ1952年に、世界初のジェット機コメットを英国に発注したが、直後に、設計上のミスに起因する事故が相次いだことからキャンセルしている。コメットの事故は世界の航空界に衝撃を与えるものであった。その尊い犠牲があって飛行機の設計基準やら何やらが安全に向けて変更された。

1958年はそこからわずか6年しか経っていない。機材も操縦士も未だ未だ足りなかったに違いない。それ故の外国人パイロットだったのだろう。

証明書面の3/4は、七福神の絵である。日付変更線を越えた貴方には神様のご加護がありますように、というわけだ。でも、神にすがりたかったのは下記事情の通り、日本航空の方だったろう。

1958年が戌年であることを表に書いたため、十二支の説明が証明書の裏面にある。この頃、太平洋航路の競争相手であるパンアメリカンが、速度が速く且つ乗客数も多いジェット機、ボーイング707を就航させようとしていたから、旧式と格下げされそうなレシプロ機しか保有していなかった日本航空は営業上不利な立場に立たされつつあったのだ。それ故、東洋趣味を強調することでなんとかお客の心をつかもうとしていたのである

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