世界有数のビジネス都市
アメリカ人の間でさえ、「何もない」と評されるジョージア州アトランタに、1994年から1999年までの4年半仕事で駐在していた。
他州からわざわざ訪れて観光に値するような場所は、まあハッキリ言ってない。
ただ、仕事をする上では非常に便利な都市だった。
アトランタ空港は飛行機の発着回数、貨物取扱量、滑走路の数、駐機場の広さなど、空港としての機能のどの点をとってみてもアメリカ最大級の規模であるし、高速道路の利便性から物流のハブとしての魅力も高かった。
アトランタにはコカ・コーラ、CNN、ホームデポ(世界最大のホームセンター)など、いかにもアメリカらしい企業の本社が置かれていた。
私が生活していた頃は多くの日本企業もこの街で活動していた。
日本航空は成田からの、飛行14時間というアトランタ直行便を飛ばし、現地で高級ホテルまで経営していたほどである。
日本人が関与する和食レストランも10か所以上はあった。
その頃は日本製品に対するバッシングが行われた直後でもあり、ビジネスにおいては色々な影響が残っていた。
例えば、私が所属していた日本企業の機械製品には高関税が課せられていたので、直輸入するのを諦め、現地で組み立てを行うなどの対策を講じなければならなかった。
本来は物流センター及び販売だけしていればいいはずのものを、組み立てと生産を包含する複雑な経営に変質させられたわけだ。
このため米国内3か所に合計6,000平方メートルの組み立て設備を導入する羽目になった。
当時はO.J.シンプソン刑事事件の裁判の様子が毎日のようにテレビで報道されていた。
この事件は結局、犯罪に使用されたとする革製の手袋が、被告であるシンプソンの手に合わなかったことから無罪判決が言い渡された。
弁護士のコクランは一躍スターとなった。
レノックス・スクエアはアトランタの麻布・青山
アトランタは地味なところではあるが、私にとっては懐かしい都会である。
特にレノックス・スクエアは建物が新しく洒落ていて、麻布や青山の趣きであった。
いわゆる都心や旧市街からは少し離れたところにある。月に一、二度訪れてみた。
アトランタは犯罪件数の多さで全米トップクラスでもあった。しかし、特に危険とされる旧市街を極力避けていたせいもあり、滞在中私は身の危険を感じたことは一度もなかった。
9.11以降のアメリカ
時は流れて2001年、9.11直後の10月に現地を出張で訪れたときは、窓から星条旗を突き出して走る多くの自動車を目撃した。
いつもは陽気で気さくなアメリカ人が、このときばかりは寡黙になり、何かを一生懸命耐え忍んでいるようにも見えた。
1000年単位の時間をかけて、国民としてのアイデンティティを醸成してきた我々日本人とは違い、若い国の国民である彼らにとって、心の支えは星条旗なのである。
国旗に対する意識には強烈なものがある。
アメリカ同時多発テロ事件のあと、世の中は変わってしまった。
彼らにとって飛行機は、日本人の電車みたいなもの。
以前は100パーセント気楽に乗れたものが、そうではなくなってしまったのだ。