ご注意
本記事は40年来のSWガチファン(自称)でありながら、エピソード8最後のジェダイで心をボッキリ折られてしまった筆者が、砕け散ってしまった自らのSWへの愛を拾い集めて、シリーズ一応の最終作エピソード9鑑賞に臨んだネタバレをたっぷり含むレビューとなっております。これまでの言動からお察しの通り、エピソード8のファンにとっては不快に感じるであろう表現が多々登場致しますので、耐性のある方のみお付き合い下さい。
エピソード8の爪痕
「古いものは滅びるべき」ーライアン・ジョンソン監督は『エピソード8:最後のジェダイ』で、この主題を観客に叩きつけました。
旧三部作の英雄ルークは臆病に老いさらばえ、第二の銀河皇帝を思わせたスノークは無様に退場し、圧倒的なフォースの潜在能力を示す女主人公レイはこれまでのシリーズに登場した重要人物とは縁もゆかりもないことが言及されました。ストーリー展開においても演出においてもこの主題は徹底されており、エピソード7が提示した「スターウォーズらしい」予定調和を悉く否定し破壊したそのやり方は、僕を含む一部のファンにとっては「乱暴すぎる」と激しい拒否反応を生むに至ります。
この映画を賛美する批評家は言う。「まったく新しいスターウォーズ」と。冗談はやめてくれ。オープニングロールも同じ、音楽も同じ、メカも同じ、ガジェットも同じ、主要キャラも同じ、これだけ旧作に頼っておいて「まったく新しい」もないもんだ。まるで親の金で裕福な暮らしをしながら「俺は親みたいになりたくない」とのたまうガキを讃えているかのようだ。
この映画のせいでエピソード9が何を語ろうと、新三部作は失敗の烙印を押されるだろう。スターウォーズはただの映画ではない。マーチャンダイズの売上が全興行収入の2倍を超えるファンが作り上げてきたカルチャーだ。玩具量販店で大量に売れ残り早くも大幅に値下げされている新三部作グッズをみるたびに暗澹とした気分になる。こんなことは絶対に(誰も)望んでなかった。
上記は公開当時筆者が怒りに任せて映画サイトに寄稿したレビューの一部で、自分でも何をそんなにムキになっていたのかと赤面の思いですが、当ブログにも何度かアップした愚痴をお読みいただければ分かる通り、公開から2年経った現在(2019年末)でも、エピソード8には好きになれる要素が個人的に一つもないことに変わりはありません。
それでも「破壊なくして創造なし」と宣い続けるライアン・ジョンソン監督の論理には、一理あることは確かで、何もこんな伝統芸能みたいなシリーズでやんなくてもという思いは別にして、彼らが呼ぶ「因習」を断ち切ったその先に新製作陣がどんな「スターウォーズ」を描くのか興味がありました。
歳末大掃除映画
ところが満を持して公開された『エピソード9:スカイウォーカーの夜明け』劇中で描かれたことを一言で要約するなら、それは「エピソード8の否定」。大団円を描いているようにみえて、三部作3作通して見れば話の筋はカオスそのものです。
レイの出自はよりにもよって何の説明もなく蘇った旧三部作のボス、銀河皇帝パルパティーンの孫娘という設定が与えられ、あっけなく死んだスノークはパルパティーンが作り出した傀儡だったという苦しい説明がなされ、宇宙を生身で飛べるレイアは実はジェダイマスターだったんだそうで、ライトセイバーを所持しレイにトレーニングを施しています。最後のジェダイは2人いたわけですね。レイアがジェダイを育てられるならエピソード7ではなんであんな大変な思いをしてルークを探してたんでしょう。
味方の窮地よりも愛を貫く女ローズはお留守番中心の端役へと降格、エピソード8では短慮な猪男だったポーには『ハン・ソロ/スターウォーズ・ストーリー』のハン・ソロまんまのバックストーリーが取ってつけられ観客の既視感を誘います。艦隊を一機で壊滅できるハイパー・スペース特攻はなかったことになり、キャラが定まらなかったハックス将軍は青天の霹靂、レジスタンスのスパイに転職していて、悪評高かったファズマとDJと箒の少年に一切出番はありません。
羅列するとお判りの通り、エピソード8で一部(そういうことにしておきます)オールドファンの不興を買ったポイントを虱潰しに「ごめんね、アレはなしです。ほら、こういうのが見たかったんでしょう?」といちいち言い訳しながら覆していってる印象。欧米圏にこの概念があるのか知りませんが、歳末ということで、さながらファンの続三部作への不満点を大掃除しているかのようでした。
ただでさえ大掃除で忙しい上に、エピソード8であらゆる次作への伏線をリセットされてしまった為、なにがなんでも本作で話を始めて終わらせなくてはならないという大人の都合上、映画2本分くらいの内容を1本の映画に詰め込んでしまっているので、その展開の速さときたら「テンポが良い」なんてもんじゃありません。ウィケットやレッド・リーダーまで駆り出して過剰なまでに「スターウォーズらしさ」を詰め込み、とにかく駆け足で話を消化しなければならないので演出上の「タメ」をさしはさむ余裕があまりなかったのか、エピソード7は勿論、8にすらあった強く印象に残ったシーンがエピソード9には殆どありませんでした。
さらに大きな難点を言うなら、レイとベンの恋愛っぽい絆の描き方も辟易しました。エピソード8が遺した数少ない伏線なんで避けられなかったのかもしれませんが、亡霊として登場して息子を許すハン・ソロはともかく、ベンはダークサイドに囚われていたとはいえ、エピソード7で何の罪もない集落の住民を虐殺し、無抵抗の老人を斬り殺してしまった男です。ラストでヒロインとキスをするディズニー映画の王子様的役割は与えてはならないのではないでしょうか。キスさえしなきゃ少なくともレイとベンの関係性についてだけは、納得できると思ってたところだったのに残念です。
覆水盆に返らず
結局のところ僕にとってエピソード7から始まった「続三部作(シークウェル)」は、「期待させてからの壮絶な裏切り、そしてやっつけ仕事」ってな印象を残して幕を閉じました。
一番落胆した点は、新しい三部作を始める時点で、三本の映画をどういう構成にし、ストーリーを紡ぐのか、ちゃんと決めないでスタートしてしまったことがハッキリ判ったこと。この映画が三部作の二作目である意味、エピソード7の後の話である理由、新たに語るべき物語、そんなものどこにも存在しなかったのだ。
上記もエピソード8公開直後の批判記事の一部ですが、結局のところ続三部作すべてに一番言いたいことはこれにつきます。
演出的に『エピソード6:ジェダイの帰還』っぽくもあり、展開的に『ハリー・ポッター:死の秘宝』的でもあるということに目を瞑るなら、本作のストーリーラインは一本の映画としてはまあまあ良く出来ていて、製作を指揮したJ.J.エイブラムスにはねぎらいの言葉をかけてもいいような気分ですが、そもそも彼が最初から三部作を通せば良かっただけの話で、それをさせなかったルーカス・フィルム社長キャスリーン・ケネディや、ディズニーの上層部には二度とスターウォーズに関わって欲しくないというのが正直な気持ちです。
よく続三部作をつかまえて「マーベル映画みたい。」だとか「ディズニー映画みたい。」といった論調をよく目にしますが、どっちのファンでもある身からすると、MCUやディズニーのアニメ映画は続編作品の悉くがスターウォーズよりよっぽどうまく作ってきてるので批判の例えにするのはお門違いもいいところです。MCUといえば噂されてるケヴィン・ファイギ(マーベルスタジオ社長)が指揮を執るスターウォーズ作品が実際に出来るまで、現製作陣が産み出す「スターウォーズ」はもういいかなと思ってます。
総評:68点(うちウィケットとサンドクローラーによる加点18点)