三浦按針のサン・ブエナ・ベントゥーラ号

三浦按針のサン・ブエナ・ベントゥーラ号

鎖国

もしも江戸時代に鎖国をしていなければ、もしくは、したとしても短期間であったならば、明治維新を待たずにもっと早い時期に開国が行われ、西洋化は余裕をもって浸透していたのではないか。

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さすれば、明治から昭和初期に掛けての、焦りが生み出したかのような過激な政策を採らずに済んだのではないか。

長い長い江戸時代に、日本独自の文化が熟成したと、鎖国政策を肯定的にとらえる意見もよく耳にするが、私は、鎖国政策と相まった幕藩体制の窮屈さ、固定された身分制度が国民にもたらした弊害の方がはるかに大きかったと考える

後に福沢諭吉は、それら江戸時代の旧政策を「親の仇」のようにみなした。

三浦按針と徳川家康

英国人航海士のウィリアム・アダムスは、1600年、関ケ原の戦いの半年前にオランダの商船リーフデ号で日本にやってきた。

オランダ・ロッテルダムを出発し、アフリカ大陸を経てマゼラン海峡を通過、太平洋を横断して、現在の大分県に漂着した。

商船リーフデ号の航路 概略図

 

アダムスは船大工として修業を積んだのち航海士となった男で、日本へ漂着する前は有名なキャプテン・ドレイクの艦隊で働いていたこともある。

ヤン・ヨーステンらと共に、家康に気に入られたアダムス。

家康は彼から、天文学、数学、幾何学、航海術などを学んだ

江戸湾に係留していたリーフデ号が沈没すると、家康に請われリーフデ号をモデルにした船の建造に携わる。

こうして完成した船が後に『サン・ブエナ・ベントゥーラ号』と名付けられた120トンの小型ガレオン船だ。

アダムスはこの功績により「三浦按針」と名乗ることを許され、250石の旗本となった。

 

この史実が意味するのは、江戸の初期に、日本は地球を一周しうる手段を手に入れていた、ということに他ならない

もし、家康がもう10年、長生きしていたら日本の歴史は大きく様変わりしていただろう。

アダムスらを重用した彼が「鎖国」などという、せせこましい政策を選ぶとは思えない。

天ぷらを食って死んだりしなければ、まことに残念なり。

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