朱印船貿易
16世紀後半から17世紀の初め頃、朱印船貿易が発展、東南アジアには多くの日本人が居住していた。
最も日本人が多かった都市はアユタヤ。日本人町の頭領は山田長政であった。
彼は日本人傭兵隊の隊長でもあった。
チャオプラヤ川を遡って侵略してきたスペインの軍船と二度戦い、二度とも撃退して時のシャム国王の信頼を得た。
長政ら日本人たちは、下のイラストのような朱印船に乗り、多数の貿易船が行きかう南シナ海を帆走して、シャムに渡った。
平均的な朱印船概要
積載量:500トン/帆柱:3本マスト/構造:ジャンク風の和洋折衷船で船底にキール有/輸出品:銀・銅・銅線・硫黄・刀などの工芸品など/輸入品:生糸・絹・東南アジア産の鮫皮や鹿皮・砂糖など/乗船人数:2-300人
40年以上続いた朱印船貿易の期間中、平均して年に11隻の船が長崎港を出発した。
外国船に乗って渡航したものや、密航者もたくさんいたので、海外へ渡航した日本人の数は述べ10万人にも達した。
長政のいたアユタヤにも最盛時7,000人ほどの日本人が暮らしていた。
当時の日本の総人口は約1,500万人。現在の人口に比例させるなら50,000人規模に相当する。
これは現在のロンドンやバンコック、シンガポールにいる日本人の割合よりも多い計算になる。
南シナ海を含む東南アジアでの朱印船航路と日本人町の所在地は、下記地図の通り。
この海では地場や日本の船舶に加えて、インド、アラビア、オランダ、イギリス、その他ヨーロッパの軍船が遊弋(ゆうよく)し、商船多数が航行していた。
地図を見れば一目瞭然。日本人の足跡はあちこちに。
当時世界に勇躍していたオランダ商人は、この地で日本人商人と競争して、時に撤退を余儀なくされることもあった。
もし江戸時代に「交易の自由」を続けていたら…。日本商人は世界中に羽ばたいていたであろう。