スラバヤ沖海戦
1942年2月、資源を求めてインドネシア、ジャワ島の攻略を図る日本海軍と、これを迎撃せんとする連合国海軍(アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア)との間で大規模な海戦が行われた。
スラバヤ沖海戦である。
戦闘の結果は8隻もの敵軍艦を撃沈した日本海軍の圧倒的勝利に終わった。
艦長の決断
会戦の翌日、当海域を哨戒活動中であった駆逐艦いかづちは、沈没した英国軍艦の将兵約400名が漂流しているのを発見。
工藤俊作艦長はただちにこれを救助することを命令した。
結果、乗組員220名の駆逐艦が、420名の敵方軍人を収容する事態となった。
20時間を超える漂流によって体力の限界に達していた彼らを、いかづちの乗組員は海に飛び込んでまでして救助にあたった。
その日、いかづち乗組員は日没まで救助活動を継続した。
敵潜水艦や航空機がいる海域において、例え味方が対象であったとしても、艦を停止して救助を行うことは危険極まりない行動とされていたにも関わらず、である。
日本海軍の伝統
第一次世界大戦時に地中海に派遣された日本海軍駆逐艦艦隊は、敵艦船がいる海域において、ドイツ潜水艦により沈没させられた英国やイタリアの輸送船から、合計で7,000名を超える将兵を危険を冒して救助した実績があった。
日本海軍の良き伝統といえる。
いかづち艦上にて
救助されたが疑心暗鬼の英国人将兵に対し、工藤艦長は
「諸君は勇敢に戦った。今や諸君らは日本海軍のゲストである。」と告げ安心させた。
油にまみれ、衰弱していた英国軍人の体を日本人はアルコール、真水、布切れをもって拭い、乾いた衣類とミルク、ビスケットなどの食事を与え、翌日オランダの病院船オプテンノールに引き渡したのである。
この逸話は戦後もしばらく日本国内で知られることはなかった。
学校の教科書にも、もちろん載らなかった。
日本軍は残虐であった、との一方的なレッテルを貼ることに熱心な一部勢力による情報操作のせいであろう。
しかし、救出されたイギリスの元海軍将校サムエル・フォール氏によって上記の経緯が明らかにされたのである。
フォール氏は2007年に来日し、工藤氏の墓参りをしている。
彼は救出された後、工藤艦長のことを忘れた日は一日としてなかったと語っている。
工藤俊作艦長は、身長は6尺(180センチ)を超え、体重95キロの大男。
柔道有段者であり、性格は温厚にしておおらかだが、決断力に優れていた。
あだ名は「大仏」で、部下から非常に慕われていた。
実はこの話は駆逐艦いかづちだけに限らない。
このスラバヤ沖海戦時、いかづちの僚艦いなづまとゆきかぜ(戦争を生き延びた幸運な船として有名)が、それぞれ370名、40名の連合国側軍人を救出している。
日本海軍の実情を知る上で重要な史実だ。