ご注意
本稿は新海誠監督作長編アニメ映画『天気の子』ネタバレあり感想文となっております。お読みいただけるのであれば、当然ながら映画鑑賞後になさることを僭越ながら推奨いたします。
映画が終わって劇場を出ようとすると、入る前はギラギラと輝いていた太陽はどこかに隠れ、街を激しい驟雨が濡らしていた。
昨晩の天気予報では8月に入ってからの東京の降水量はゼロという話だったが、偶然にも『天気の子』を観た後に降られてしまった。
傘は持っていなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
公開タイミングを考えれば、こういった現実の「日本の夏」との相乗効果は、新海監督の演出だったような気がしてならない。
同行した中学生の坊主を伺うと、目を細めて雲の切れ間を仰いでいる。彼も同じようなことを考えていたのだろう。
奇しくも忘れがたい映画体験となった。
またしても渋ってしまった
とまあ、この映画を鑑賞して、すっかり僕の中の厨二心が目を覚ましてしまったので、柄にもなく私小説的な書き出しではじめさせて頂きましたが疲れてきたのでもうやめます。
2016年『君の名は。』の社会現象的超絶大ヒットが記憶に新しい新海監督の最新作『天気の子』。
夏休みに公開される映画として観客の注目度も、製作側が期待する興行収益も文句なくナンバーワンの作品であることは間違いないと思いますが、『プロメア』の感想文の時にも書きましたが小生、アニメ映画にそこまで興味がなく、この『天気の子』もですね、映画史文脈的に鑑賞しなければという義務感こそあったものの、「いい歳こいて中高生の恋愛アニメなんか、どんな顔して観てりゃいいんだよ。」などと、グズグズ渋っていたらあっという間に公開から一カ月近く経過してしまいまして、お盆休みにかこつけて、13歳の息子が「観てみたい。」というのを理由に、および腰で観に行ってみれば、意外とツボに入った映画で、なんでも観る前に先入観はよくないよねと人生何百回目かの自戒をした、というわけです。
あらすじ
以下あらすじを、MovieWalkerの『天気の子』ページに加筆する形で紹介します。
森嶋帆高(声:醍醐虎汰朗)は16歳の夏、離島(おそらく伊豆七島のどれか)から家出する形で東京にやってきます。バイトを探しながらネットカフェなどに寝泊まりする日々。しかし16歳を雇ってくれる職場などなかなかなく、やがて生活に困窮し、フェリー船上で出会った怪しげな男が代表を務める会社で、オカルト雑誌などに寄稿するライター業兼雑用係の仕事に就きます。仮初の庇護者を得て、束の間安定する帆高の暮らし。
不思議なことにその夏、東京では連日雨が降り続いていました。
そんな折、帆高はひとりの少女に出会います。その少女・陽菜(森七菜)は祈るだけで空を晴れにできる不思議な能力があり、帆高は彼女にその能力を活かして収入を得ることを提案します。奇跡の能力に、大喜びの依頼者たち。社会に居場所を得て、幸せを感じる帆高と陽菜。しかし彼女の能力には、恐るべき代償が伴いました。能力を行使すればするほど、陽菜は空と密接にリンクし、やがてその身を捧げなければ、天候は二度と回復しないという「人柱」へと変化させてしまったのです。帆高の前から突然消えてしまう陽菜。自分のせいで陽菜を消滅させてしまったと悔やむ帆高。
彼女ともう一度生きるために、少年が引き換えに差し出すものとは何か。
これが大まかな『天気の子』のストーリーです。
主人公の選択について
さきほど「意外に」という表現を恣意的にしましたが、この『天気の子』、公開直後から観客の賛否が前作以上に真っ二つに割れた作品でして、その割れた理由と言うのが主にラストの展開についてその受け取り方が人によって大きく異なったということのようです。
あらすじでも軽く触れましたが映画のクライマックスで、主人公帆高は空の世界へ行き、囚われた陽菜の手を取って脱出を試みます。自分が残らないと、東京には雨が降り続いてしまうと告げる陽菜。そんなことかまうもんかと、陽菜と生還する帆高。しかし、その後陽菜が予告したように東京には雨が降り続き、低地を中心にその大半の土地が水没してしまい、そのことについては救済がないままエンディングを迎えます。
嘘だと思われるかもしれませんが、我々が映画鑑賞後トイレに向かうとき、30代中頃の女性が、自分の娘と思しきお子さんに「あのラストで、一気に冷めちゃった。手前で終わっとけば面白かったのに。」と聞えよがしに言っているところに出くわしました。あの展開に否定的な方も多かれ少なかれ、彼女と同じような意見なんでしょうね。東京が犠牲になるのはトレードオフの天秤の片方として大きすぎるということなんでしょう。
彼女が言う「手前で終われ」と言うのは、陽菜ちゃんが消えてしまって、帆高が奔走するも結局ダメで、空は晴れ渡り涙はとめどなく流れる、みたいな感じでしょうか。
しかしそんな救いがない話、本当に面白いと思えますかね。思春期の少年が、年頃ゆえの悩みからか家族ともめて家出して、孤独に震えながらも、必死でマトモに生きようとしていたのに、やっと心を通わせた少女が悪気は全くなかったとはいえ自分のせいで消滅してしまう?
捻った展開やバッドエンドが好きな映画オタクならまだしも、そんな物語、マス向けのエンターテインメント作品としては失格じゃないでしょうか。
そりゃついでに世界もなんとかできたら良かったけど、二者択一になってしまうなら、好きな相手のためにそれ以外の全てを犠牲にするのが、10代の少年少女ってもんだろうし、彼らの特権ですらあると僕は思っています。僕の親友にちょうど、16歳のときでしたが、海外に留学中の女の子に急に会いたくなって、夏休み中バイトして貯めた金を全部使ってイギリスに行ったエピソードを持つやつがいますし、そこまでじゃなくても当時自分が好きな女の子のためなら、他人に多少迷惑かけることなんて何とも思わなかっただろうと想像はできます。
しかも、陽菜ちゃんと引き換えに誰かの命が犠牲になるって話ならともかく、じっくり浸水してるはずなので人的損害はほとんどないだろうし、そもそも雨が降り過ぎて東京が水没って、荒川とか多摩川の治水工事が足りないせいか、地球温暖化で北極の氷が溶けてるせいかどっちかだと思うの(雨では海面上昇しないため)で、一概に帆高のせいとは言い切れないですよね。まんが日本昔ばなしの『雉も鳴かずば撃たれまい』で、日本古来の悪しき因習「人柱」に戦慄した世代の筆者にとっては、鉄腕アトムやアイアンマンのように、その身を犠牲にすることにより、その他の生命が救われるんならともかく、雨降るくらいで誰かの(特に可憐な少女の)命が引き換えになることはないと真剣に思います。引っ越せばいいんだしね。
グダグダと長くなってしまいましたが、故にですね、主人公帆高がとった行動は僕にとっては全く違和感なく、むしろ彼があの場でその手段を選ばなかったら「こぉの意気地なしめ。」と腹立ったろうし、現実と地続きのようでいて、ファンタジーがふんだんに織り交ざったセカイで、ボーイミーツガールを衒いもなく描くという新海監督作品共通のテーマ的にも、中途半場な結末になってしまっていたと思います。
拾った拳銃を巡ってのドタバタも、クライマックスを忙しくするための設定ということは透けて見えますが、普通の10代が帆高と同じような境遇におかれたら、考えなしにとりあえず護身用に持ったままにしちゃうこともあるような気がしますし、チンピラにマウントパンチされたり、警察に理不尽に追われたりしたら威嚇射撃の一発や二発撃っちゃうこともあるかもしれません。力で叶わないんだからどうにかして「俺は本気なんだぞ!」って示すしかないですもんね。
事程左様に、この映画の否定派が主人公をつかまえて、やれ「無責任」だとか「思慮が足りない」だとか糾弾しているようですが、そもそもティーンエイジャーって無責任で思慮が浅いもんだし、それでも必死だから、我々も通って来た道として愛おしく思えるのであって、未完成な人間を描いている映画として『天気の子』はちゃんと共感できる誠実な作りにはなっていると、僕は思います。
背景美術こそが真の主役
SNSを眺めていると、空や雲の写真を投稿する人って多いですよね。
ただ青空を眺めているだけなのに、何故か胸が締め付けられるような気がするみたいな経験も、誰しもが持っているものでしょう。
美しい空が嫌いな人などいない、そこに目を付け、アニメ表現としてそこにフォーカスを絞った新海監督はやはり慧眼と言わざるを得ません。『天気の子』は、タイトルを読んで字の如く、東京を舞台にありとあらゆる空の表情を魅せてくれる卓越した美術映画でもありました。新海監督のみならず、美術監督の滝口比呂志氏の手腕の大きいところなのでしょう。大袈裟でなく、鑑賞中主人公たちと一緒に雨上がりに光る街並みを観ているような、また別の場面ではグライダーやパラセールを操って、大空を飛んできたかのような爽快感を画面から得ることが出来ます。このことだけでも単純に「いい映画観たな。」と思えますし、『天気の子』を通じて感じる清涼感は、この空の描写の素晴らしさに依るところが大きいです。
細田守監督の『サマーウォーズ』などもそうですが、青空、青春、しずる感、総じて夏休みに相応しいポカリスエットのような映画でございました。
僕は大好きです。
総評:91点(13歳の坊主の採点は99点)