【機械好きの原点】我が郷愁の蒸気機関車

【機械好きの原点】我が郷愁の蒸気機関車

蒸気機関車の思い出

生家が総武本線旭駅のすぐ北側、距離にして100メートルほどの場所にあったから、子供の頃、海風が強く吹きすさぶ日は、線路を通る蒸気機関車がまき散らす黒煙が家の中に入らぬよう祖父さんを手伝って縁側にある大きな窓を閉めて回ったものだ。

閉めたとしても古い家で建付けが怪しくなっているから、煙は少し入ってきてしまい、燃えた黒炭の匂いをよく嗅がされた。

近所の友達が遊びに来ると、庭の地面に釘や枯れ枝を使って機関車の絵をよく描いた。

友だちの1人タツオ君は、私の家よりも更に線路に肉薄した家に住んでいた。

彼の父親は鉄道員であった。

彼の家に遊びに行って、ついでに線路伝いに歩いてみたり、入れ替えの為に停車していた貨物車に触れたりしたことをよく憶えている。

 

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1950年代初頭の千葉県・旭町。

道に自動車らしい自動車は走っておらず、船といえば町から数キロ離れた九十九里浜の沖合で漁をする小さな漁船しかなく、飛行場もまた遠いため航空機の姿もなかった。

従ってこの町に住む少年たちの憧れは、蒸気機関車に集約されていた。

機関車が駅を出発する時、ズボッという音と共に煙が一際強く煙突から吐き出され、でっかい車輪のあたりからブシューッと真っ白な水蒸気が噴出する。

その様子は巨大な生き物のようにも見えた。

大人になってからは、一貫して機械を販売する仕事をしてきた。

今思えば幼心に刻まれた、蒸気機関車という複雑な機械への憧憬が影響したのかもしれない。

更に言うなら、私がゴジラに愛着を感じるのも、あの黒々として無慈悲なほどに頑丈な塊に、魅惑されていたからかもしれない。

山紫水明なる日本の景色は穏やかだ。

そんな柔らかい風景の中を蒸気機関車が走ると、黒が強調点となって、いい塩梅の絵になる。

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鉄道こぼれ話

日本の鉄道は狭軌である。なぜか?

近代化に向けて鉄道の導入を急いだ明治政府は、工事期間が短く、且つ投資金額も節約できるという理由で、当時イギリスが南アフリカなどの植民地に敷設していたものと同じ規格を取り入れたのである。

遠い南アと日本は、鉄道に関して言えば兄弟なのだ。

ただ後の世になってみれば、狭軌ではその上を走る列車の速度に制限が課されてしまう。

新幹線などの高速鉄道を走らせるには、標準軌道の新たな線路を作るしかないのだ。

新幹線の生みの親である島秀雄氏は、実は蒸気機関車D51(デゴイチ)の設計者でもある。

19世紀の香りがするSLと、モダンな高速鉄道が同じ人物の設計というのは、ちょっと意外な感じがする。

 

新幹線計画は、成功した今だから良しとされているが、必要な投資金額を大幅に低く見積もって国会に提案された。

そうでもしなければ、世界的に鉄道が斜陽とされていた時代に、新規の高速鉄道計画は実現しなかったであろう。

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