ご注意:本稿は映画『竜とそばかすの姫』の感想記事です。物語の根幹に関わる重要なネタバレを多数含むうえに、強めの批判が主となります。未鑑賞の方は勿論、ポジディブな感想をお持ちの方は、わざわざ読んで気分を害する必要もないと思いますので閲覧をご一考ください。
『君の名は。』の新海誠監督と並んで、今や日本を代表するアニメーション作家となった細田守監督最新作『竜とそばかすの姫』。前作『未来のミライ』が自分的にしっくりこなかったとはいえ、『時をかける少女』やデジモンの輝きが忘れられない筆者にとっても今夏最大の注目作でしたが、結果は非常に残念なものとなりました。
否定的なことを書くのに、言葉を飾っても仕方ないので端的に言うと、この映画は劇中歌と、要所の美しいアニメーション演出以外は欠陥だらけだと感じました。映画を構成する3つの主要素、ストーリー、世界観、キャラクターは全てにおいて練り込み不足というか、非常に浅いものに感じますし、各要素の親和性が悪い為、鑑賞していてその場から逃げ出したくなるくらいの気まずさを覚える作品でした。
パッチワークのような物語
細田守監督自身が色んな媒体のインタビュー等で「本作は、細田版『美女と野獣』だ。」と語っているように、本作の劇中、時にはまんまと言ってもいいほどの『美女と野獣』要素が散りばめられています。しかしその一方で、あくまで「細田版アレンジ」にするために、無暗にオリジナル要素がバラまかれた結果、ディズニー版が本来持っていた物語の求心力を失ってしまい、オリジナル映画としても『美女と野獣』のオマージュ映画としても破綻が多くみられる結果となってしまっています。
端的な例を挙げます。
映画の終盤、主人公の鈴が恵兄弟の危機を知り単身、高知から東京へと向かう場面。
映画をご覧になった方はお分かりのように、この危機というのは成人男性が子供に向かって奮っている暴力による危機なわけです。
そんな危機に女子高生の鈴は慌てて馳せ参じようとするわけですが、鈴と一緒にその危機を認識した総勢9人の仲間たちは、なぜか誰一人鈴と同行しようとしません。ちなみに仲間のうち、2人は運動部に所属する男子高校生ですし、5人は大人の女性です。みんなして電車に乗る主人公を「気を付けてね」と文字通り見送るわけです。
これは仲間がついていくことにしてしまうと、美女にあたる主人公と野獣に該当する恵との初邂逅のシーン、ついに素顔の野獣と美女が相まみえるディズニー版由来の大事な場面に、もう一人配置されてしまった(主人公にとっての)ヒーローがどうしても居合わせてしまうためですが、そのご都合主義的不自然さは看過しがたいものがあります。
そもそも本作の物語が描きたいことは何だったのでしょう。ディズニー版の『美女と野獣』は、ベル側とビースト側の二軸で物語が展開し、二人の心の交流と解放を描いています。
しかし『竜とそばかすの姫』は、美女側であるはずの鈴と、その鈴の仮想世界においての姿「Belle」(ややこしいな)の2軸ばかりが語られ、対称となるはずの野獣側、「竜」の物語がほとんど語られません。
故になぜBelleと竜がお互いを特別な存在とするのか、「竜」の葛藤や仮想世界で暴れまわる理由は何か、観客が飲み込める理由はほぼ提示されないまま、物語はよくわからない状態のボーイミーツガールをこなして終わりを迎えてしまいます。
鈴と恵、彼ら二人はこの先どうなるというのでしょうか。
筆者的には「竜」の正体が鈴の父親なら物語としてある程度成立するなと考えながら鑑賞していました。これなら竜側の話が最後まで隠される理由もサスペンスとして辻褄があいそうです。
それでは、「野獣側」に割り振るはずの時間を犠牲にして、たっぷり時間をかけた「美女側」はうまくいっていたのかというと、これがそうでもありません。本作では主人公鈴にとって「歌う」という行為が「心の開放」とリンクさせられています。
母親の死によって「歌う」ことが出来なくなってしまった鈴でしたが、しかし仮想世界「U」だとなぜかすぐ歌えてしまいます。
母親が死んだショックは仮想世界でも簡単に無かったことにはならないと思うのですが、もし仮想世界にそういったセラピー効果があったとしても、もう少し時間の経過と楽しい「U」での生活が描かれるべきではないでしょうか。
そもそも鈴にとって「歌う」ことがなぜ10年間のブランクをおいてなお「心の開放」と密接に結びついているのか、母親はなぜ縋り付く我が子を置き去りにしてまで他人の子を救う決断をしたのか、失った母親と「歌」との関係は?父親との不仲の理由は?物語の根幹に関わるこれらの問いに映画は答えてくれません。姿を変えた仮想世界でなら即座に歌えるのであれば、主人公は容姿に強いコンプレックスでもあるのかと思いきや、これも現実世界での仲間とのやり取りを見るにそうとは限らないようです。
いちいち取沙汰しましたが、鑑賞して感じるのは、必要か不要かをよく吟味せずそれらしき物語の要素を寄せ集めて配置した結果、とっ散らかって整合性がとれなくなってしまった、出来の悪いパッチワークの様なストーリーでした。監督の前々作『バケモノの子』も若干そのきらいがありましたが、本作はその傾向がより顕著なようです。
現代では飲み込み辛い世界観
そもそも本作に登場する「U」ってどんなSNSなんでしょうか。
自分の生体情報を反映したアバターの姿で、五感を同期させて楽しむもののようですが、「U」に入ってる間実体はどうなっているんでしょう。スピルバーグ監督の『レディプレイヤー1』に登場した仮想空間のようなことかなと想像しますが、あちらはちゃんと入力端末や専用筐体が描かれたのに対し、本作にはそういったものは耳に装着するイヤホン型の端末以外は登場しません。そもそもあのイヤホンで前述の五感共有云々が可能であるなら、いちいちスマホやPCモニタを介する理由はないはずです。また、せっかく仮想空間に入るのに、生体情報をもとにアバターを生成されて、できることも生体情報が持つ才能由来(鈴の歌など)というのも、アプリとしてナンセンスだと感じます。どうせ仮想なら現実の自分とかけ離れた体験をしたいですよね。
細田守監督の過去作『サマーウォーズ』にも似た感じの仮想世界が登場しますが、『サマーウォーズ』が発表された2009年当時はあんな感じのフワっとした電脳空間表現でも「なんかよくわからないけど凄そうな近未来」ってことで納得できました。
しかし、干支一周分の月日が流れ、スマートフォンの普及やオンラインゲームの興隆、VR技術の確立なども相まって、観客のITリテラシーは『サマーウォーズ』の頃とは比較になりません。10年ほど前にマスコミが大騒ぎしていた、アメリカのリンデンラボ社が運営する「セカンドライフ」という現実に紐づいた仮想世界(メタバース)サービスが、その後爆発的人気を得るに至らず衰退していったことまで我々は知ってしまっている状態なのです。
細田版『美女と野獣』の実現にあたって、ファンタジー世界のような舞台立てが必要となり、そのため用意されたのが本作「U」であるわけですが、その作り込みや背景設定における時代錯誤的なIT観や矛盾が雑音となり、作品への没入感を妨げる要因となっていました。
書割のようなキャラクターたち
ここまで苦言を連ねてきて、元々は敬愛する監督の、肝入りの最新作についてそこまで言う事もないんじゃないかという気がしてきましたので最後に手短に、本作に登場する見た目こそ華やかな数々のキャラクターたちについて。
上段で本作のストーリーをパッチワークのようだと表現しましたが、あちこちから要素だけ持ってきた本作の物語に付随するキャラクターたちは、物語にも増して掘り下げが浅く、また強引な展開を進めるためにか知性レベルが不自然なほど下げられており、個人的には魅力を感じるには至らないキャラクターばかりでした。キャラクターデザインも、実世界の人物たちはともかく「U」の中のキャラ達は、村上隆のアートワークやら『プロメア』やらヒロアカやらで既視感のあるデザインが多かったように思います。個人的にはあえてディズニーヒロインに寄せてデザインされたBelleのデザインや表情が特に違和感があって苦手でした。
結局ジャスティンて誰でしたか?匿名サービスにおいて個人情報を世界中に開示するというとんでもない権限を彼はなぜ与えられていたのでしょう?「竜」の取り巻きのかわいらしいアバター達(『美女と野獣』でいう召使たちの役割)、彼らの正体をAIというガッカリ設定にした理由は何?合唱団のおばさまたちはや同級生たちは「U」の世界やラストで共闘しないなら何故あんなに尺をとって登場するの?
期待していた分、失望が大きく、最後は酔っ払いがクダを巻いているようになってしまいましたが、事程左様に『竜とそばかすの姫』は筆者的にはお世辞にもお勧めできる作品ではありませんでした。中村佳穂さんの劇中歌は、悉く前評判通り素晴らしかったのですが、作品世界に合っていたかと言われるとかなり疑問でした。